〇エルンスト・マイ

エルンスト・マイ(18861970)は第一次世界大戦と第二次世界大戦とのはざまであるヴァイマール共和国時代にフランクフルト アム マイン(Frankfurt/M.)註1)に多くの団地(ジードルング)を手掛けた建築家で都市計画家でもあった。1920年代に12000戸の集合住宅を主にベルリンに作ったブルーノ・タウトは1880年生まれであるので、ほぼ同年代の建築家である。国立バウハウスの初代校長となったヴァルター・グロピウスは1883年生まれでやはり同年代の建築家である。この3名がドイツ建築界で表現主義を主導し、かつ一般勤労者の為の集合住宅建設に力を入れた代表的建築家と言える。3名ともナチスドイツを逃れ外国へ亡命している事でも共通点がある。

米国に滞在もしたが19259月にフランクフルトに戻り、フランクフルト市で住宅計画の建築家として指名され、同市の建設局長に就任した。当時のフランクフルト市の市長はルードビッヒ・ラントマンで社会主義の政治家であった。エルンスト・マイは「新フランクフルト」策定に着手し、都心部の計画は建築家アドルフ・マイヤーに任せ、自らは広域圏・都市拡張案を担当した。また貧困スラムなどの問題を抱える同地で1930年までに多数の良好な住宅地を供給すべく計画建設していく。

1926年にオーストリアの女性建築家マルガレーテ・シュッテ・リホッキー(Margarete Schüttle- Lihotyky)と共に厨房の近代化を図るべく家事労働の行動を写真撮影分析を試み、これを基に合理的な厨房設計を行った。これをフランクフルター・キュッヘ(Frankfurter  Küche:フランクフルトの厨房)と呼び主婦の家事作業の労力削減に寄与した。ナチス時代はマイは東アフリカに亡命した。戦後はハンブルグの巨大集合住宅を建設し運営するノイエ・ハイマートの設計部長を務めるが、ダルムシュタット工科大学の教授になる。1970年にハンブルグで亡くなったが、生まれ故郷のフランクフルトに埋葬された。

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 フランクフルト・ニーダーラッドの集合住宅
フランクフルト・ニーダーラッドの集合住宅 
 フランクフルト・ニーダーラッドの集合住宅 
フランクフルト厨房(リホッキー設計) (1.86mX3.44m(6.43㎡)
 フランクフルト厨房(リホッキー設計)、アイロン台、兼配膳台、右は薬局からヒントを得た調味料入れ
 建築家エルンスト・マイの生涯と作品(その1):月刊建築仕上技術2015年2月号
 建築家エルンスト・マイの生涯と作品(その2):月刊建築仕上技術2015年3月号
 建築家エルンスト・マイの生涯と作品(その3):月刊建築仕上技術2015年7月号
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