ブルーノ・タウト(1880~1938)は東プロシャの首都ケーニクスベルクに生を受けた。
マクデブルグの役人として建設活動に尽力した。
アルプス建築など表現主義の画集を発表し、ドイツ表現主義の旗頭となった。
1920年代にベルリンに労働者の健康を考えた集合住宅を12000戸建設し、社会主義の建築家として名をはせた。
しかし台頭してきたナチスに睨まれ、憧れていた日本へ亡命のようなかたちでやって来る。
日本では思うような建築活動を行えず「建築家の休日」と自嘲し、高崎の少林山だるま寺の庵にこもった。
そして日本文化を紹介する著作活動に専念した。なかでも「日本美の再発見」は有名である。
1936年にトルコのイスタンブール芸術アカデミーから教授の声がかかり、トルコへ移住した。
しかし激務の為病を得、1938年イスタブールで客死した。
私は1971~1973年の間ベルリン工科大学ヘルマン・リーチェル研究所に客員研究員として在職していた。
1972年に恩師である建築家武基雄先生の訪問を受けた。
ベルリンは有名建築の宝庫であるから、それらを訪ねて多くの訪問者があった。
多くの方は私が設定する3時間コース、6時間コース等の有名建築訪問で満足していただけた。
しかし、武先生はそうではなかった。「自分はこれと、これを見学したい!」とのご主張があった。
その一つがオンケルトムズヒュッテという場所の集合住宅であった。
この団地には私のドイツ人の友人も住んでいた。武先生ご指定の集合住宅の前を通って友人を訪問した事もあった。
この集合住宅このタウトの設計であった。
この集合住宅を車でご案内したところ、「オー」とおっしゃりそのまま棒立ちになられ、いったいこの方は
どうされたのかと心配したものだった。
その夜ベルリンの拙宅を訪問して下さった武先生はブルーノ・タウトの事を詳しく説明して下さった。
ナチス政権を逃れて来日したタウトを受け入れたのは早稲田の建築学科の先輩たちであった。
早稲田大学と東京大学で講義を行い、武先生は東大の講義にも参加したとのことであった。
かつ集合住宅設計論を直接説明して頂いたとのことであった。
武先生は興奮気味にタウトの事を一方的に話された。
その気迫に圧倒され、なぜオンケルトムズヒュッテの集合住宅で棒立ちになられたのか伺う機会を逸してしまった。
この集合住宅は1932年の作品で、タウトがドイツを脱出する直前のものであった。
タウトが日本で行った講演で使用した作品でないかとかってに想像している。
私も1973年暮れに帰国したのであるが、武先生はその後病魔に襲われ、ついに帰らぬ人になってしまわれた。
「不明な点、疑問に思った点はその場で質問し解決すること」というのがその時に得た教訓である。
兎も角武先生の訪問をきっかけに、1972年以来タウトの作品を追い続けた。
自分では現存するタウトの作品は全て訪問し、写真、図面を集めたつもりである。
それをもとにブルーノ・タウトに関し多くの報文、著作を発表したので、これを紹介する。
(写真はクリックすると拡大されます)
改修工事が竣工したダーレビツにあるタウト旧宅(2010年6月27日撮影、所有者のディプナー夫人と共に) | |
田園都市ファルケンベルクの集合住宅玄関 | |
ホーエン・シェーンハウゼンの小住宅 | |
トリエラー通りの集合住宅 | |
シェーン・ラーカー通りの集合住宅 | |
ブリッツの馬蹄形住宅 |
主なる著書
田中辰明・柚本玲著:建築家ブルーノ・タウト・・・人とその時代、建築、工芸、2010年オーム社
田中辰明著:ブルーノ・タウト、日本美を再発見した建築家、2012年中央公論新社
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2012/06/102169.html
http://honto.jp/netstore/pd-book_25230786.html
田中辰明著:ブルーノ・タウトと建築・芸術・社会、2014年東海大学出版会
https://www.press.tokai.ac.jp/bookdetail.jsp?isbn_code=ISBN978-4-486-02017-2